重要なのは柳田の「文学」=「民俗学」は、柳田個人が「文学」なり民俗学の論文を書くことが目的ではなく、誰もが近代の設計のために平易に使えるツールとしての言葉の技術をつくり、実践させていくことにあったということです。いわば柳田民俗学は、だれもが「文学者」――社会的なことばの担い手になることを推し進める社会運動だった。……柳田はまずその環境を整えようとして、データベース(あらゆる民族資料を検索可能な「索引」化しようとした)をつくったり、「掲示板」としての雑誌を観光しよとしては周囲から理解されず、休刊を繰り返した。柳田の雑誌は、今で言ったらそれこそソーシャルメディアなんですよ。紀要や学術論文誌じゃなく、多くの人々が「ことば」を持ち寄る投稿空間にしようと考えていた。 (「インタヴュー 大塚英志『「憲法」を生き直す最後の機会』―『早稲田文学』春号)
投稿空間は、普及した。これから先は、質と調整の問題であろう。