正気であり続けること

    文月悠光の詩『パラレルワールドのようなもの』(『現代詩手帖』9月号)では、一年前の「私」が現在の私の手を引き、新国立競技場を目指して走り出す。無観客の喝采を浴びながら、公衆トイレに駆け入り、消毒ペダルを踏む。

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批評の生命

批評に文体をあたえるのは、知識でもなければ、観察や分析でもない。見ている姿勢から、たとえば言うという行為を開始するとき、私たちはある断絶をとびこえねばならない。見る位置から、人間の存在の間の断絶をとびこえようとするとき、批評もまた文体を生む。(江藤淳「批評と文体」―『現代日本文學大系66』筑摩書房

 

 ここでいう文体とは、生命と言ってもよかろう。

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死体をめぐって

『ハリーの災難』(米国、アルフレッド・ヒッチコック)のモチーフは、冒頭から死体になっている。彼の処置をめぐって、町の住人は、喜劇的なやり取りに終始する。埋めては堀り返し、また埋める。挙句は風呂場で洗われる死体。自分のせいで死んだのか? 住民の思い込みは、真相から、ことごとく外れている。死体は異臭を感じさせず、置かれた山の紅葉が異様に美しい。かくして、異色でありながら、エピソードにふさわしい展開に収まるのである。

   

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野球は人生

 部活で挫折した女子高生と、元プロ野球選手のアドバイザー。二人が働くバッティングセンターを訪れる女性客は、いわくつきの者ばかり。何かをかかえる女たちが、妄想の試合で登場する名選手の一言で救われるという『八月は夜のバッティングセンターで。』(テレビ東京)は、シンプルな筋立てでありながら、爽快な印象を残す。

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おごりを許すもの

  安倍政権であれ、現政権であれ、盤石どころか、突っ込みどころは多いが、それでもとらえられないのは、報道機関の弱体化に追うところが多い。望月衣塑子・五百旗頭幸男の共著『自壊するメディア』(講談社+α新書)は、ジャーナリストとしての意識を堅持する両者が、ぬるま湯と化した現場について明かしている。番人が役割を放棄したとき、何をしても許されるというおごりが蔓延するのは、自然な流れであろう。

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考証する人

 どうしてこうも俺たちと評価が違うんだろうと。乱暴に言うと、「スパイの妻」で違っちゃうのは、時代劇に電信柱が映っていても気にならない人と、それは違うだろうという人との、その差だと思うんだよね。気にならない人が多くなったんじゃないの(荒井晴彦談―森達也ほか『映画評論家への逆襲』小学館新書)

 

  さまざまな媒体で動画的なものは無尽蔵に作られる一方、まともに考証できる者、考証にこだわる者は、減少している。この分野は、AIに任せれば足りるというわけではない。

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