愛情がいつのまにか暴力に転じている。暴力的な振る舞いを愛情だと感じてしまう。暴力性と享楽を同時に感じている。ファンをはじめとする受け手は、そのような危うい感触とともに芸能に触れている。(矢野利裕『ジャニーズの感触-むしろ芸能スキャンダルとして』―『文學界』1月号)
いかなる事件においても、報道や法的措置だけではつかみきれない領域がある。そこを押さえられるかどうか。
一人の人間が特定の場に出向いて起こす無差別の殺人は、秋葉原以外でも、周期的に発生している。この種の事件を道徳論や精神論で裁いたところで、何ももたらされない。中島岳志『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』朝日新聞出版では、友人もおり、仕事の適応力も決してないわけではなかった加害者が、どのような経緯で犯行に至ったかを、丹念な調査によって、たどっている。
事件は直線的に生じたわけではない。加害者の心情は何度も揺れたと思われ、結果に至るまでの紆余曲折も、家庭や時代の影響が密接にかかわりながらも、それだけではない要素が複合的に絡んでいる。裁判や報道では、当事者の実態とはかけ離れた論調ばかりが交わされるが、そこから漏れたものが、どこにあるのか。それをどこで表現するのか。いたずらな道徳観によって、場所と方法を狭めることは、避けなければならない。
香港の夜景を着飾ったネオンは、建築法の改正で大半が消えた。『燈火(ネオン)は消えず』(香港、アナスタシア・ツァン) は、こうした時代にネオンサインの職人として生きた夫の死後、彼のやり残した仕事を完成しようと、妻や愛弟子が奔走する。
失われたものへの郷愁だけではなく、生前理解しきれなかった夫への悔恨、挫折続きだった青年の思い、やがて離れていく母国や家族への恩義といった周囲の諸々が重なり合うことで、クライマックスで完成した一夜限りのネオンサインは、いっそう輝きを増している。