余裕の賞味期限

mukuku2007-04-29

 チェルフィッチュの主催者、岡田利規の演劇は、出口の見えないフリーターたちの生態がもっぱら描かれる。金もないし、はけ口もない。将来のことを考えると気が滅入るだけ。かくして、今をだらだらと過ごすしかなくなる。
 それでも若いうちは、身体にまだ抵抗力があるから、生活が不規則だったり、栄養に乏しくても、何とか持ちこたえられる。これが、高齢者となると、そうはいかない。
 蓄えがあったり、面倒を見てくれる相手のいる勝ち組団塊世代の場合ならいざ知らず、年金もわずかな老人の生活は、現代でも厳しい。
 一九三二年生まれの岡田睦の私小説『明日なき身』(講談社)では、妻に逃げられ、生活保護と年金で、かろうじて暮らす孤独な日々が描かれる。作者は生活保護のことを「セイホ」と呼んでいる。

 毎月、五日が“セイホ”の支給日。二、三日前になると、きまって金がなくなる。コインだけになり、セブン−イレブンのむすび、最低一個百円のを、一日一つ喰うことになる。それも買えなくなって、何も喰わずひたすら五日を待つときもある。

 現状では、年金にしろ、生活保護制度にしろ、現在の若者が老人になると、もっと待遇が悪くなる可能性が強い。こうした生活レベルの私小説を「生活保護に頼るよりない惨めな零落のきわみで、どっこい一人の作家が生きている」(清水良典)などと、娯楽的に消化できるうちは、まだ余裕がある。だが、余裕の賞味期限がいつまでも続くとは思えない。
 
 

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