永遠の難民

 タリバンに死刑を宣告された監督が、アフガニスタンを出国。家族を連れ、各国をさまよいながら、ヨーロッパまで脱出する。『ミッドナイト・トラベラー』(アメリカ・カタール・カナダ・イギリス、ハッサン・ファジリ)は、道中をスマホで撮影したものだ。

 砂漠や山野などの険しい道をさまよい、悪徳業者に騙されたりもする。彼らは、どの国へ行っても、招かれざる移民として、保護をされなかったり、住民の抗議に遭う。『サウンド・オブ・ミュージック』の一家と違うのは、彼らが、永遠の難民にさせられることだ。

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鯨と生きる

 鯨が信仰そのものになっているインドネシア・ラマレラ村。捕鯨での収穫がなければ、村人は食えないし、漁で命を落とすこともあるが、鯨と共に生きていくしか道はない。『くじらびと』(日本、石川梵)には、30年間、村民と交流を続けた撮影者ならではの、貴重な映像が収められている。

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実験の効果

 さえない高校教師たちが、勤務中に適度の飲酒をする実験が効果を奏して、授業が活気を帯び、生徒の評判も良くなるが、漁を増やすうちに、奇行が目立つようになり……。『アナザーラウンド』(デンマーク、トマス・ビンターベア)は、一種の教訓物語と言えるが、失敗や同僚の死を経て、彼らは、酒に任せて避けていた問題と向き合うようになったのだから、実験は無駄ではなかったと言えるだろう。

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正気であり続けること

    文月悠光の詩『パラレルワールドのようなもの』(『現代詩手帖』9月号)では、一年前の「私」が現在の私の手を引き、新国立競技場を目指して走り出す。無観客の喝采を浴びながら、公衆トイレに駆け入り、消毒ペダルを踏む。

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批評の生命

批評に文体をあたえるのは、知識でもなければ、観察や分析でもない。見ている姿勢から、たとえば言うという行為を開始するとき、私たちはある断絶をとびこえねばならない。見る位置から、人間の存在の間の断絶をとびこえようとするとき、批評もまた文体を生む。(江藤淳「批評と文体」―『現代日本文學大系66』筑摩書房

 

 ここでいう文体とは、生命と言ってもよかろう。

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濱口竜介の方法

 夫婦の葛藤、被災地と都会、ワークショップと現実、テキストと劇映画、地方と多国。『ドライブ・マイ・カー』(日本)は、濱口竜介の方法論が集約され、しかも、どう転ぶかわからないという緊迫感が、最後まで途切れることはない。観る者を触発し、見るだけに終わらせない能動性を隅々まで、はらんでいる。村上春樹とチェホフという最良のテキストが下地にあり、それらが、視覚的にも、思考上も、凡庸化されていないことが、卓越した力量を証明している。

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50年ぶりの音楽祭

 1969年の夏に開催された黒人の音楽祭「ハーレム・カルチュラル・フェスティバル」。大勢の観衆が訪れながら、ウッドストックの陰に隠れて、その模様は封印されていた。50年前の映像は、グラミー賞受賞者のアミール・クエストラブ・トンプソンの手で編集され、『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』(米国)として、よみがえった。観客と一体化し、盛り上がるのは、スティービー・ワンダーB・B・キング、マヘリア・ジャクソンら、名だたるミュージシャンだ。

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