作家の信頼

 自伝的小説が曲解され、批評文が全国紙に掲載されたことで、地方在住の家族が被害を受けかねない事態に陥る。作家は、SNSや媒体の新聞社を通じて、批評家と対話するが、論点はかみ合わない。文壇や読者には理解者もいるが、一方で文学界の閉鎖性や読解の基本欠如から来る重い壁にも悩まされる。

 桜庭一樹『キメラ―『少女を埋める』のそれから』(『文學界』11月号)は、小説『少女を埋める』の掲載後に起きた出来事の顛末が、男性と女性、中央と地方、旧文学と新文学といった多角的な視点で、時系列的に綴られる。あえて公開されたのは、作家としての覚悟によるものだろう。事実的な記述だけに終わらせず、批評家の一文にあった少女時代の孤独や境遇にも目を配っている。

……実はここにも埋められた少女が一人おり、……そういったファミリーヒストリーもまた、文芸時評がこのような騒動となった原因の一つだったかもしれないと、つまり、執筆者の抱えるトラウマが、ある思いこみに繋がり、無意識の領域に認知のゆがみを作ったのではないか、とも推測する。

すると痛みを感じる。

 でも、実際のことは何もわからない。すべてはわたしの想像だ。現実のことではなく、わたしの中でキメラになりつつある、想像上のC氏の姿に過ぎない……。

 想像の領域侵害を避け、一定ラインで、筆を止めつつも、ここには、逡巡があり、作家として、信頼すべき思考がある。

 

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