坂本長利の一人芝居の原作でも知られる『土佐源氏』は、宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)に収録されている。馬喰だった盲目の老人が語るのは、外れ者だった生い立ち故の数奇な生涯だが、魅力は極道者を自認する彼というよりも、かかわりのあった女たちであろう。男たちに比べて、自由に制約のある日常の中で見せる気遣い。身分の差にとらわれず人間を受け止める心のありようが、恵まれたとは言い難い老人の枯れた人生に、花を添えるのである。
変わり者にしか見えなかった女の秘めた意外な計画。『プログラミング・ヤング・ウーマン』(米国、エメラルド・フェネル)のキャシーが執念をかけて晴らすのは、友人の仇であり、虐げられた女の怨念である。恨みは、男社会の共犯者とも言える同性にさえ向けられる。妥協はない。意外なストーリーだけにとどまらぬ支えがある。
「日本のデモクラシーも安倍政権以後「ジャクソニアン」化しつつあるというのが私の診たてである。日本の有権者たちはある時期から統治者に高い能力や見識や倫理的インテグリティーを求めることをやめた。……それよりはむしろわかりやすい人気取り政策を行ない、味方と身内を重用し、「政治的に正しい理想」は鼻先でせせら笑うような「等身大の政治家」を好むようになった」(内田樹『後手に回る「リアリスト」』-『週刊金曜日』6日・13日合併号)
政治の役割を否定したり、関心を拒む者も、政策と無縁ではいられない。本来の政治家に必要とされる大局観や責任感は、経済・文化・スポーツの分野の人々に学ぶどころか、はるかに上回るべきものだろう。