ウクライナドラマの緊迫感

 精神カウンセラーがボランティアの運転手として、いわくつきの人々を国境まで送り届ける。依頼人は、それぞれ複雑な事情がある。それだけでもドラマの要素として十分だが、運転手自身が離婚予定という事情に加え、救援基金で夫が汚職をしていたことを知るばかりか、妹の事故死に彼が絡んでいたというサスペンスが加わる。『ドライブ in ウクライナ』が現時点で放送したのは5話までだが、上記のドラマの背景として、進行中の戦争の傷跡が取り込まれ、緊迫感がいっそう増している。

 敵対するロシア側は登場させるのではなく、ウクライナ側の関係者の衝突と和解を描くことで、傷を抱える人が本当は何を望んでいるかを胸に突きつける。

     

 

脱力の普及

僕は84年に「逃走論」、85年に「ヘルメスの音楽」という本を出しますが、もともと怠惰でまったく生産的ではないし、別に何も成し遂げなくても、のんびり暮らして気楽に死ねばいいじゃないか、という人間(ニーチェなら「最後の人間」や「本人」と呼んだような)なので、年長者の推薦で何となく物を書き始めたものの、毎年のように本を出すのが面倒になりました。(浅田彰アイデンティティ・ポリティクスを超えて』―『新潮』2月号)

 早熟な知性と解析力に恵まれながらも、欲のない浅田の脱力ぶりは、欲望と上昇志向にまみれた人たちとは対極をなしている。もっとも、性差や国籍・身分にとらわれない平和とは、こうした思考の普及にあるのかもしれない。

                    

 

争いを超えて

中上健次論においても、解釈の妥当性をめぐって正当・異端を争うのではなく、他の中上論を排除しない展開のしかたが望ましい。キリスト教的な護教主義による多元テクストの抑圧を避け、仏教的な、言説の自在な発展を規範としなければならない。(四方田犬彦中上健次パゾリーニ』―『すばる』2月号)

 詩人であり、映画監督だったパゾリーニと、小説に徹した中上の共通点と差異を論じた本講演は、文学を超えた分野の提言でもあろう。

                   



自分の時間

『フジヤマコットントン』(日本、青柳拓)の被写体は、家族でもなければ、職員でもない。富士山の見える福祉施設に通う障害者たちだ。

 絵を描く。花を世話する。綿をつんで布を織る。寝たいときはひたすら寝る。深刻さに目を向けがちな既存のドキュメンタリーと違い、撮るのは、つかの間のひとときだ。自分のペースでしか味わえない至福の時間を、観る者も共有できる。

     

 

猟師の思索

 猟師と獣の関係は、大衆や取材者と芸能人の関係にも似ていた。狩猟者は、獲物をかわいそうと思いながらも、肉を切り裂き、美味しいと感嘆して、むさぼり食う。いつか自分も、食われ、朽ち果てることを予期しながら、それでも生きる。

『WILL』(日本、エリザベス宮地)は、スキャンダルで事務所を追われ、山にこもった俳優の生活に、カメラが入り込む。人がいる限り、生きることの業は、都会でも山村でも残存し、被写体による堂々巡りの思索は、ラップ歌手の叫びをも超えた誠実さがある。

     

 

映画の力

 ひさしぶりの最新作『瞳をとじて』(スペイン)に至るまで、31年間、映画を撮らなかったビクトル・エリセは、決して映画の力に失望したからではない。主人公を通じて、失踪した俳優を探し求めることで、新たな結びつきを可能にした。相手は、知人だったり、その家族だったり、かつての恋人である。放置していたフィルムとも再び巡り合う。俳優は記憶を失い、風貌も変わり果てているが、再会がかすかな希望を感じさせる。

     



リメイクの普遍性

 スピルバーグのオリジナル映画があり、ブロードウェイのミュージカルを経て、両者を融合させたリメイク版『カラー・パープル』(米国、ブリッツ・バザウーレ)は、より洗練され、普遍的な物語になっている。

 20世紀初頭の黒人社会で虐げられた女たち。自分が自分であるための生き方を見出す物語の傍らに、改心して許される男やアフリカの紛争もある。今日的なメッセージを帯びているのは言うまでもない。

      

 

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